小学生6年生のとき当時「総合の時間」と言われていた授業で「黒川開拓団」について知りました。その後、15年間「黒川開拓団」について知識は更新されることなく過ごしてきました。それが、昨年のEテレのETV、山口放送制作の「記憶の澱」で黒川開拓団が命かながら生き延びてきた事実を知ったのです。その後、長野県阿智村にある満蒙開拓団団平和記念館へも訪れました。今月(8月)になり、TVや新聞、WEB記事で再び「黒川開拓団」について考えることがありました。そして、もう一歩の背中を押されたのは、学生の頃からお世話になっている秋元祥治さんから「黒川開拓団を聞き学ぶ会をやろう」というメッセージでした。
―満蒙開拓団とは何か?―
いまの中国東北部・内モンゴル(ロシア極東、モンゴル、朝鮮半島に隣接。現在のハルピンを中心とする地域)に、1931年(いまから86,7年前)日本の国土の3倍の面積の国家が建国されました。当時は多くの日本の貧しい農村部から、国策として満州への開拓団が送り込まれたのでした。
1945年(昭和20年)に敗戦が濃厚になると満州を統治していた関東軍は撤退しました。敗戦後、集団自決をはじめ建国以前から暮していた満人やソ連軍に襲撃を受けたるなど過酷な状況の中で置き去りにされた開拓団の27万人のうち8万人が命を落としました。
敗戦後、政府は開拓団は現地に置き去りにする方針でいたが、アメリカの配慮で引き揚げ船が用意され、命かながら引き揚げてきた人たちがいます。
―黒川開拓団―
黒川村(現・岐阜県白川町)からも、満州に第2の黒川村をつくるのだという号令で貧乏人は満州へ、農家の次男、三男は満州へという方針で、黒川から85戸、佐見村(現・岐阜県白川町)から38戸、他から6戸。総勢129戸、600名が満州へ移植しました。
満州では黒川開拓団のうち200名余が命を落としています。また、3名が中国残留孤児として現地に残ったそうです。満州から引き揚げてきたあとも、敗戦後の日本での生活は厳しく、黒川で生きてきた人、黒川以外の地域で生きることを選択した人がいます。

黒川の「佐久良太神社」には黒川満蒙開拓団について記された慰霊碑があります。そして、その隣には説明のない「乙女の碑」があります。この碑は敗戦後に黒川開拓団のために自らを犠牲にして命を失った4名の女性を祭っています。

―終戦時10歳だった安江菊美さんに聞く―
黒川開拓団で終戦時10歳だった、安江菊美さんにお話を伺うことができました。

安江菊美さんは現在83歳で終戦時は10歳(小学5年生)。父親が農家の3男だったため、昭和17年、小学1年生の3月に満州に出発しました。
満州へは下関から船底に押し込まれ釜山まで行き、そこからは列車で黒川開拓団の移植地まで移動しました。
黒川開拓団は「陶頼昭(とうらいしょう)」という地域に移り住みました。この地域は、もともと住んできた満人(まんじん)が開墾した土地や家屋を安く買いあげ(とりあげ)移植時から、ジャガイモなどが大量に収穫できた。移住した家は、黒川に住んでいたときよりも快適でした。
黒川開拓団は満人とも仲良くなっていて、自分たちの言葉を押しつけることなく、子どもたちは、互いに遊んでいました。
それが敗戦後に一変します。隣の開拓団は200人が敗戦3日で集団自決します。黒川開拓団も土地を取り上げられた満人から襲撃を受けます。さらに、ソ連軍からも襲われる(戦争が終り引き揚げの途中で日本人の開拓団の女性を次々と襲っていた)。そのような壮絶な状況でした。
黒川開拓団には奥地から軍医やロシア語が堪能な人たちが合流しました。そして、ロシア語が堪能な人たちがソ連軍の幹部に頼み、食料と治安の維持をお願いしました。その“御礼”として10代、20代の未婚の女性の15名(3名が存命)が差し出されたのです。それが「接待」と呼ばれる「性接待」でした。
ソ連軍に治安の維持をお願いしてからは、働きに出でたりすることができたそうです。菊美さんも現地の満人の裕福な家庭で子守をいていたそうです。しかし、あまりにも菊美さんが寂しそうにしていたので、家に戻されたそうです。家に戻ったあと菊美さんは母親から、ソ連軍に“接待”する娘さんが入る風呂を沸かすように言われたのでした。
戦後、日本政府は開拓団を引き揚げをせず現地に残るようにしていたようですが、アメリカが船で中国から佐世保へと引き揚げ船を出し、昭和21年(1946年)の8月から引き揚げがはじまります。その引き揚げ船で、菊美さんは1年ぶりに“お風呂”に入ることができた。“お風呂”に入ることができたことが、何よりも嬉しかったと語っていました。
満州では、ご飯を食べれないときもあった。馬の飼料を食べることもあった。死人の山を見ることもあった。亡くなった人たちを、埋める。埋めたのを野犬が掘り出し食べている。死人が増えると、埋めてもいられない。引き揚げに向かう途中も屋根のない列車で雨に打たれながら港まで移動したそうです。
日本に帰国後も、家もない、農地もない。敗戦で苦しい日本で生きていく。黒川に帰ってきも、父親がシベリアに抑留されており、母親と菊美さんと妹で品物を売っていた。生きるために一生懸命だった。
黒川開拓団の仮校舎での集合写真。

菊美さんの満州からの引揚証明書。

菊美さんの父親のシベリア抑留からの引揚証明書。(菊美さんの父親は、片目を失明していたが、敗戦が近づく中で徴兵され、戦後シベリアに抑留された)

―これから―
実際に満州での当時の経験を伺うのは重い。
菊美さんは、これまで多くの機会で満州についての語り部をされている。
この、満州での出来事。この日本で、かつて日本人が開拓していた満州で、たった73年前に何があったのかを直接、多くの人に知ってもらいたいと思う。
満州とは何かを知らない。日本の敗戦時・終戦時の状況はよくわからない。歴史のコトは知らないし、興味もない。そんな人にも知って、感じて、欲しい。そんな機会をつくりたい。
―まとめ―
戦後73年。戦争で生き延びた人、犠牲になった人たちがいるからこそ、いまの僕たち日本があることを改めて感じます。当時の経験を語れる人が少なくなり、いずれ日本人が全員戦後生まれになるかもしれない。“いま”だからこそ、当時“そこ”で何が起きたのかを知る人から、直接お話を伺う。この平和な生活がいつまでも続くように僕たちが受け止め受け、継ぎ、歴史として認識することが必要なのだと思う。
18.8.20 朝日新聞朝刊 「性接待」沈黙を破る女性たち

18.8.20 岐阜新聞朝刊 封印された記憶①

18.8.21 岐阜新聞朝刊 封印された記憶②

18.8.22 岐阜新聞朝刊

18.8.23 岐阜新聞朝刊

18.8.25 岐阜新聞朝刊

18.8.26 岐阜新聞朝刊

18.8.27 岐阜新聞朝刊

「乙女の碑」がある「佐久良太神社」
―満蒙開拓団とは何か?―
1931年(昭和6年)に起きた満州事変から1945年(昭和20年)の日本の太平洋戦争敗戦時に至るまで、いわゆる旧「満州国」(中国東北部)・内モンゴル地区に、国策として送り込まれた入植者(満蒙開拓移民)約27万人のことをいう。ウィキペディアより
いまの中国東北部・内モンゴル(ロシア極東、モンゴル、朝鮮半島に隣接。現在のハルピンを中心とする地域)に、1931年(いまから86,7年前)日本の国土の3倍の面積の国家が建国されました。当時は多くの日本の貧しい農村部から、国策として満州への開拓団が送り込まれたのでした。
1945年(昭和20年)に敗戦が濃厚になると満州を統治していた関東軍は撤退しました。敗戦後、集団自決をはじめ建国以前から暮していた満人やソ連軍に襲撃を受けたるなど過酷な状況の中で置き去りにされた開拓団の27万人のうち8万人が命を落としました。
敗戦後、政府は開拓団は現地に置き去りにする方針でいたが、アメリカの配慮で引き揚げ船が用意され、命かながら引き揚げてきた人たちがいます。
―黒川開拓団―
黒川村(現・岐阜県白川町)からも、満州に第2の黒川村をつくるのだという号令で貧乏人は満州へ、農家の次男、三男は満州へという方針で、黒川から85戸、佐見村(現・岐阜県白川町)から38戸、他から6戸。総勢129戸、600名が満州へ移植しました。
満州では黒川開拓団のうち200名余が命を落としています。また、3名が中国残留孤児として現地に残ったそうです。満州から引き揚げてきたあとも、敗戦後の日本での生活は厳しく、黒川で生きてきた人、黒川以外の地域で生きることを選択した人がいます。

黒川の「佐久良太神社」には黒川満蒙開拓団について記された慰霊碑があります。そして、その隣には説明のない「乙女の碑」があります。この碑は敗戦後に黒川開拓団のために自らを犠牲にして命を失った4名の女性を祭っています。

―終戦時10歳だった安江菊美さんに聞く―
黒川開拓団で終戦時10歳だった、安江菊美さんにお話を伺うことができました。

安江菊美さんは現在83歳で終戦時は10歳(小学5年生)。父親が農家の3男だったため、昭和17年、小学1年生の3月に満州に出発しました。
満州へは下関から船底に押し込まれ釜山まで行き、そこからは列車で黒川開拓団の移植地まで移動しました。
黒川開拓団は「陶頼昭(とうらいしょう)」という地域に移り住みました。この地域は、もともと住んできた満人(まんじん)が開墾した土地や家屋を安く買いあげ(とりあげ)移植時から、ジャガイモなどが大量に収穫できた。移住した家は、黒川に住んでいたときよりも快適でした。
黒川開拓団は満人とも仲良くなっていて、自分たちの言葉を押しつけることなく、子どもたちは、互いに遊んでいました。
それが敗戦後に一変します。隣の開拓団は200人が敗戦3日で集団自決します。黒川開拓団も土地を取り上げられた満人から襲撃を受けます。さらに、ソ連軍からも襲われる(戦争が終り引き揚げの途中で日本人の開拓団の女性を次々と襲っていた)。そのような壮絶な状況でした。
黒川開拓団には奥地から軍医やロシア語が堪能な人たちが合流しました。そして、ロシア語が堪能な人たちがソ連軍の幹部に頼み、食料と治安の維持をお願いしました。その“御礼”として10代、20代の未婚の女性の15名(3名が存命)が差し出されたのです。それが「接待」と呼ばれる「性接待」でした。
ソ連軍に治安の維持をお願いしてからは、働きに出でたりすることができたそうです。菊美さんも現地の満人の裕福な家庭で子守をいていたそうです。しかし、あまりにも菊美さんが寂しそうにしていたので、家に戻されたそうです。家に戻ったあと菊美さんは母親から、ソ連軍に“接待”する娘さんが入る風呂を沸かすように言われたのでした。
戦後、日本政府は開拓団を引き揚げをせず現地に残るようにしていたようですが、アメリカが船で中国から佐世保へと引き揚げ船を出し、昭和21年(1946年)の8月から引き揚げがはじまります。その引き揚げ船で、菊美さんは1年ぶりに“お風呂”に入ることができた。“お風呂”に入ることができたことが、何よりも嬉しかったと語っていました。
満州では、ご飯を食べれないときもあった。馬の飼料を食べることもあった。死人の山を見ることもあった。亡くなった人たちを、埋める。埋めたのを野犬が掘り出し食べている。死人が増えると、埋めてもいられない。引き揚げに向かう途中も屋根のない列車で雨に打たれながら港まで移動したそうです。
日本に帰国後も、家もない、農地もない。敗戦で苦しい日本で生きていく。黒川に帰ってきも、父親がシベリアに抑留されており、母親と菊美さんと妹で品物を売っていた。生きるために一生懸命だった。
黒川開拓団の仮校舎での集合写真。

菊美さんの満州からの引揚証明書。

菊美さんの父親のシベリア抑留からの引揚証明書。(菊美さんの父親は、片目を失明していたが、敗戦が近づく中で徴兵され、戦後シベリアに抑留された)

―これから―
実際に満州での当時の経験を伺うのは重い。
菊美さんは、これまで多くの機会で満州についての語り部をされている。
この、満州での出来事。この日本で、かつて日本人が開拓していた満州で、たった73年前に何があったのかを直接、多くの人に知ってもらいたいと思う。
満州とは何かを知らない。日本の敗戦時・終戦時の状況はよくわからない。歴史のコトは知らないし、興味もない。そんな人にも知って、感じて、欲しい。そんな機会をつくりたい。
―まとめ―
戦後73年。戦争で生き延びた人、犠牲になった人たちがいるからこそ、いまの僕たち日本があることを改めて感じます。当時の経験を語れる人が少なくなり、いずれ日本人が全員戦後生まれになるかもしれない。“いま”だからこそ、当時“そこ”で何が起きたのかを知る人から、直接お話を伺う。この平和な生活がいつまでも続くように僕たちが受け止め受け、継ぎ、歴史として認識することが必要なのだと思う。
18.8.20 朝日新聞朝刊 「性接待」沈黙を破る女性たち

18.8.20 岐阜新聞朝刊 封印された記憶①

18.8.21 岐阜新聞朝刊 封印された記憶②

18.8.22 岐阜新聞朝刊

18.8.23 岐阜新聞朝刊

18.8.25 岐阜新聞朝刊

18.8.26 岐阜新聞朝刊

18.8.27 岐阜新聞朝刊

「乙女の碑」がある「佐久良太神社」