今年は明治維新から150年。日本の国の政治が大きく変わってから150周年です。そうそう、東京が“江戸”から“東京”に改まられて150年になります。その歴史の過程には、ただただ、維新万歳とも言えません。その一つが、幕末から明治初期にかけて全国で展開された『廃仏毀釈』です。岐阜県の苗木藩(恵那市・中津川市・加茂郡の一部)。この藩では、とくに徹底的に廃仏毀釈がおこなわれました。

以下は以前、白川町についてまとめたマップから一部を抜粋したものです。

【廃仏希釈について】
 白川町内のかつて苗木藩領だった地域には神道を信仰するところが多くあります。慶応418683月「神仏分離令」が発布され、永年つづいた「神仏混淆」歴史は大きな改革を迫れることになりました。 明治3年に白川町内の多くを領地としていた苗木藩では王政復興・神道国教主義に基づく「祭政一致」の政治理念によって、領内の村々に対し、次々と触書を出し寺院の破壊をはじめ仏像・仏具の破壊、僧侶の還俗が命じました。家庭における仏壇・位牌の焼却、路傍にある石仏・文字塔なども破壊するか土中に埋めるか川に流すように命じました。このような仏教排除の政策は全国的にも苗木藩において徹底的に行われました。その結果、現在でもお地蔵様や仏教の石像は徹底的に壊された爪あとを白川町内で垣間見ることができます。

町内の方にお話を伺いました。
榊間修さん 
 かつて黒川(白川町・黒川)にはこの地に似つかない程の大きな「正法寺」というお寺があったと言われています。しかし、正法寺は明治時代に「廃仏毀釈」によって壊されてしまいました。当時は苗木藩各地で廃仏毀釈運動が行われ黒川でも例外なく行われました。現在、当時のなごりを残すのは正法寺の跡地と正法寺があったところからもう少し登ったところにある“首のない地蔵”、中ノ平にある「南無阿弥陀仏」の石碑です。この石碑は当時土の中に埋められたものを掘り起こしたものです。白川町を含めた苗木藩は全国的にも廃仏毀釈に積極的に取り組んだところになります。

白川町は“神道”を信仰する世帯が多くあります。(僕の家もそう)となりの、東白川村には全国で唯一お寺がありません。
現在、白川町には曹洞宗の洞雲寺や豊川寺、臨済宗の龍氣寺などがありますが、こちらは廃仏毀釈が落ち着いてから再興されたお寺になります。
現在でも、神道がメインの家が多くありますが、檀家としてお寺を支えている人たちも多くいらっしゃいます。


東白川村の役場前にある四つ割りの南無阿弥陀仏碑
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