疎開
【1】くっついているものをまばらにすること。【2】敵襲・火災などによる損害を少なくするために、都市に集中している人や建物などを分散すること。全辞書検索JLogos
「疎開」というキーワードが世をにぎわせているので、疎開と白川町について調べてみました。

「疎開」といえば、都市に集中している人や建物を地方に分散すること。第二次世界大戦中に大都市から空襲を避けるために、大勢の方が疎開されました。

岐阜県・白川町にも終戦末期に疎開されてきた方がいます。それが「岡本一平」さん。

岡本一平さんは、日本の漫画家で作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父でもあります。最近話題の「太陽の塔」の制作した岡本太郎の父が岡本一平さんです。

その岡本一平さんは、昭和20年3月に白川町に疎開され、翌21年に「漫俳」を提唱して現在でも白川町でも受け継がれています。

そんな
「岡本一平と白川町と漫俳」について昭和43年発行『白川町誌』について記載されていたので、引用します。

漫俳
 三川地区を中心として、戦後しばらく大流行した「漫俳」については、創始者の岡本一平画伯を中心に書かなければならない。岡本一平については、当時三川小学校校長であった丹羽紫峯(平一)の書いた『白川町と岡本一平』の一文があるので、次に抄出する。
白川町と岡本一平 丹羽平一
 「漫画家として名声の高い岡本一平が、本町中川の旧知新田亀三医師を頼って疎開したのは、終戦の年にあたる昭和20年の3月であった。

 一平疎開の報せは、戦争に明け暮れて、疲れ果てた地方の人達に、何かしらの一つの正気のようなものを感じさせた。それは漫画のもつ明郎性がそうさせたもので、一平に対するこの地の人々の関心は高かった。

 一平はかの子夫人亡きあと、後添として八重子と結婚、その間に、いづみ、和光・おとわ、の3人の幼子があり、戦禍の都会生活に疲れた4人の家族を連れて、当時の食糧難、交通難の山村の生活の不自由さは並々ならぬものがあった。然し一平は持ち前の悠々たる態度で、幼児を背負い手籠を持って買物にも出かけ、土地の人々と心易く話し合い、農村の生活にとけ込んで、高ぶったり気取ったりする風は少しもなかった。普通人の生活とかわっている芸術家の生活に奇異の感じを持ちながらも『一平さん』“一平さん”と親しんだ。そして米を持参して漫画を描いてもらったり、或いは団体が講師に招いて文化講演会を催したりした。

 こうして町内はもちろん、広く県下各地にその足跡は広まり、地方の文化向上に少なからぬ影響を与えた。当町への疎開していた期間は昭和20年3月から翌21年11月までの1年9ヵ月間であった。短かい期間であったが、この間には敗戦という大転機を迎え、国内は挙げて未曾有の大混乱に苦しんだ時期であった。

 一平の存在はこの地方に明るい光を与え、人々に豊かな影響を残した。有形のものとしては相当に多くの作品(主に色紙)がある。
一平と漫俳
疎開中の一平の文化的業績としてどうしてもあげなければならないのは漫俳である。
 漫俳という名称も一平が新しく造り出したものであって、俳句や川柳とおなじく、17文字の短詩型の文芸として創始、提唱したものである。

 一平がこの漫俳を提唱しはじめたのは終戦の翌年の21年3月であるから、当時疎開後ちょうど1ヵ年たったところである。その動機として考えられるのは、その3月、地方文芸復興のさきがけとして、岐阜タイムスの後援で、土地の狂俳同好者の主催で一般に作品を募集したが、その選考に一平が推されていたことも影響してか、任期は上々で応募作品は2300句に達した。

 一平はその選をしているうちに、かつて漫画で新生面を開いたように、文芸の面でも新機軸を出そうとしたのである。そこで第一に考えたのは、人々は敗戦の痛手で望みを失い、極度の食糧不足に見まわれてただ食うことにのみに心を労し、道徳は乱れ、笑いやゆとりというものに欠けていた。この状態を救う一つの方法として、この地方に培われている文芸趣味をとり上げ、通俗的で誰でも入り易い17文字の文芸によって、風雅の中に笑いやユーモアを盛って、世に明るさを与えようとしたのである。

 提唱の初句として詠んだのは
 “お粥腹減らさぬように笑わそう”
というのである。これによってその動機をうかがうことができる。

 即ち実生活そのものが詩であるとの考えから、赤裸々な人間生活の中に取材して、俳句の持つ風雅と川柳のねらう穿ちとユーモアを盛り、生活や感情を表わそうとしたのである。そうして俳句の条件である季にこだわらず、ただ17文字の型式の中に自由に通俗的に、新しい表現を試みようと意図したのである。

 この提唱を世にいち早く弘めたのは、当時の濃飛新聞編集長一ノ瀬武である。この紙上に一平の得意漫画を描き漫俳で賛をして、発表したので人々の注目するところとなり、県下文芸界に大きな波紋を投げかけたのであった。

 この新文芸を最も早くとり入れたのは三川であった。氏を招いて漫俳の話を聞き、同人によって三川漫風吟社を創立し、機関誌として季刊『漫風』を発刊した。

 漫風誌は当時の用紙不足の中に苦心して紙を入手し、印刷は騰写刷とし、体裁はよくなかったが、表紙には一平漫画を色刷りとし、内容も、一平の自選句をはじめ、論説や、一平選による応募作品、同人の互選句等を収録した充実したものであった。投句者は広く県下一円に及び、文芸の機関誌としては見るべきものであった。

 三川漫風吟社においては、漫俳発祥の地として一平の句碑を建てようと、同人相謀って赤川の流れに石をさがし出し、三川小学校のかたわらんい之を建立した。その除幕式は昭和22年1月7日であった。その句は
 “三つ川を盥にうぶ湯かな”
というのである。
 こうして句碑を立ち、漫俳もいよいよ世人の関心を高め、同好者も増してきた。

 昭和21年11月に一平は古井町神明堂・岸東八郎方に移転したが、太田(今の美濃加茂市)を中心に吟社が出来て、漸く中央にも進出せようとした矢先、23年10月11日に一平は突如発した脳出血のため63才で急逝、そのため漫俳も中心を失い、漫風誌は15号まで発刊して25年4月廃刊のやむなきになった。

『白川町誌』  第7章文化 1014ページ 昭和43年3月30日 発行 
三川運動場横にある「漫俳発祥の地の句碑」
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“三つ川を盥にうぶ湯かな”
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白川町では現在でも広報誌である「広報しらかわ」やケーブルテレビの「CCNet」で「漫俳」を募り掲載しています。



また、小学生も授業の一環や夏休みに漫俳作成をしていたような…。


74年前に白川町を中心に広まった『漫俳』まだまだ白川町に受け継がれています!