かつて岐阜県・白川町には「黒川鉱山」がありました。現在、当地を訪れて面影を感じるものは「元鉱山前」というバス停のみ。

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この「黒川鉱山」について昭和43年発行『白川町誌』について記載されていたので、引用します。

黒川鉱山
 明和年代大阪の鉱山師が試堀を手がけたのが始まりで、100年後の慶応元年に休山となった。

 明治11年に神土の村雲仁佐衛門が再び採掘を始めたが、水が大量に湧き出したため、明治18年に一時休止したが、その後三重県の池永安之介が採掘を始めた。蒸気機関で水を汲み上げる方法を用いた。池永は約5年間採掘事業を続けたが、権利を大阪の帝国殖産株式会社に譲渡し、本人は現地技術者として残った。この頃から黒川鉱山の最盛期を迎えるわけで、従業員の数も400人に達し、その60%が地元民で、黒川の経済に大きく貢献した。当時は精錬所が黒川西小学校の裏にあたる横平にあって、盛んに精錬したので、付近の山が煙害のために荒れ禿げ、作物や川の魚などにも被害が出て大問題となった。ちょうどそのころ黒川から遠ヶ根峠を越え恵那郡大井へ通じる道路工事が完成し、中央線によって鉱石を瀬戸内海にある精錬所へ輸送する便が開けたので、大正元年に横平の精錬所が閉鎖した。

 その後、水選法によって良鉱を選り分ける選鉱場の廃水が川に流れこみ、稲が被害を受けたり、放流した鮎が死んだりして、問題となり、防止策として選鉱場に続いて大きな沈澱地を設けた。

 太平洋戦争に入ると、銅・鉛等は軍の要請も強く、懸命な採掘が行われた。しかし湧水の増加のため、採鉱が困難となり、やがて終戦によって休山となった。

 昭和30年通産省地質調査部がウラン鉱調査の結果、黒川鉱山周辺でかなりの放射能反応を検出したため、原子燃料公社の手で、二ヵ年にわたってボーリング調査が行われた。ウラン含有量も高く将来有望と喧伝せられたが、交通その他周辺の事情によって調査は打切られた。
『白川町誌』  第2章産業 697ページ~ 昭和43年3月30日 発行 

“山里”の現在の岐阜県白川町黒川。旧黒川村は交通の便が不便なもののかつては、それなりに栄えていたようです。商店や飲食店も多くありました。その黒川を支えていたものの一つが「黒川鉱山」だったようです。

“従業員の数も400人に達し、その60%が地元民で、黒川の経済に大きく貢献した”

明治時代に従業員400人。そのうちの60%が地元民。240人程でしょうか。従業員には夫婦や親子で働いていたかもしれませんが、父親を中心に家族が複数人いたことを考えると鉱山で家計を支えていた人も多かったのかな。大変栄えていたのでしょうか。

しかし、日本全国の鉱山には“鉱害”の問題があります。「足尾鉱毒事件」や「イタイイタイ病」が有名です。他にも健康被害はなくとも、自然への影響があったようですが、黒川鉱山でも
“付近の山が煙害のために荒れ禿げ、作物や川の魚などにも被害が出て大問題となった”
“稲が被害を受けたり、放流した鮎が死んだりして、問題となり”

今どきでいう“環境問題”があったようです。

第二次世界大戦後に休山したよう。

ちなみに、黒川は自然の放射線量が高いようです。まあ、みんな元気で健康に長生きしているので、特に気にしていません。

 昭和30年通産省地質調査部がウラン鉱調査の結果、黒川鉱山周辺でかなりの放射能反応を検出したため、原子燃料公社の手で、二ヵ年にわたってボーリング調査が行われた。ウラン含有量も高く将来有望と喧伝せられたが、交通その他周辺の事情によって調査は打切られた。